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館長エッセー 第4回 美術館があるということ

私は生まれて初めて美術館を訪れた日のことを日付や天気にいたるまではっきりと覚えている。それは1980年5月17日、快晴の爽やかな一日であったはずだ。初めて訪れたのは神戸、王子公園の兵庫県立近代美術館、訪れた展覧会は「ミレー、コロー展」。閉幕直前ということもあり会場はかなり混んでいた。私がそこまで明確にその日のことを覚えているのはなぜか。大学に進学して一人暮らしを始めた高揚感とは関係があるだろう。あるいはそれが高校時代のガールフレンドとの最初のデートであったためかもしれない。しかしそれだけではないはずだ。バルビゾン派の絵画をめぐり、彫刻室の彫刻の間を通り抜けながら、私はそれまで全く知らなかった自由な空間が存在することを知ったからに違いない。
鳥取市で生まれ育った私は県立博物館で開催された美術展に足を運んだことはあったと思う。しかし大学に入って関西に移るまで私は本格的な美術館に行ったことがなかったのだ。今日にいたるまで、少なくとも鳥取県の東部、中部に住む多くの若者はこのような状況を共有しているのではないだろうか。美術館に通うことの意味は単に展覧会を訪れたり、カフェでお茶を飲むことにあるのではない。この世界にも自由な場所があることを知ることであると私は考えている。私が過ごした学校とは規律と調教の場であった。多くの人にとって職場とは管理と統制の場である。私はそれを否定しない。人が社会性を獲得し、他者と協調していくうえでそれらは必要な訓練であるからだ。しかしそれだけでは息が詰まる。
家庭でもない、学校や職場でもない、そのような場所はしばしば第三の場所、サード・プレイスと呼ばれる。カフェや図書館、そして美術館といった場所に対して用いられる言葉だ。しかし私は美術館にもう少し積極的な意味を与えたい。公共圏という発想だ。もともとドイツの哲学者ユルゲン・ハーバーマスが提唱した概念であり、さまざまに応用されているが、私は人が自由に集い、自由に過ごし、場合によっては自由に議論しあえる場所のことではないかと考える。そして私はそれが具体的に実現された場こそ美術館ではないかと考えるのだ。ここで重要なのは「自由に」という点である。誤解なきように直ちに付け加えるならば、これはもちろん美術館では何をしてもよいということを意味しない。美術館にも一定の規則はある。しかしその本質は自由な空間であるはずだ。
今日どのような公共圏が可能であるかを考えてみよう。確かに図書館やカフェにもあてはまる言葉かもしれない。あるいは公園や広場、大学の構内はどうだろうか。しかし直ちに理解されるとおり、このような公共圏は今日明らかに縮小している。場としての目的が明確な図書館やカフェこそかろうじて存続を許されているが、公園は企業の名を冠す代わりに周囲を囲われ、オリンピックや万博の名のもとに広場は閉じられる。私たちは公共圏の後退に次ぐ後退という状況の中にいる。このような趨勢の中で鳥取県に美術館という新しい公共圏、自由の砦が築かれたことの意義は大きい。
美術もまた自由によって保証されている。少なくとも20世紀の美術は表現が自由であるからこそ、かくも多様で豊かな作品によって彩られることになった。自由という前提なくしてモネの《印象・日の出》は美術史に登録されることはなかっただろうし、デュシャンがアンデパンダン展に出品した男性用小便器《泉》が現代美術の起源とみなされることはなかったはずだ。そしてそのような自由を保証する場所こそが美術館や展覧会であったのだ。(厳密には《泉》は展覧会場から撤去されたが、ここでは措く)
少々話が難しくなった。私たちの美術館に目を向けよう。何度か記した通り、槇総合計画事務所によって設計された美術館は明るいファサードと広いフリーゾーンを特徴とする。エントランスの奥に「ひろま」と呼ばれる広々とした空間が広がり、「ひろま」と大御堂廃寺跡の広大な緑地を「えんがわ」がつなぐ。三階の企画展示室に隣接する「展望テラス」からは時に遠く大山も望めるはずだ。来館者は展示室に入りさえしなければ館内のこれらの空間を無料でめぐることができる。かくも広く多様なフリーゾーンを備えた美術館を私はほかに知らない。
最初に述べたとおり、美術館とは単に展覧会やカフェのために存在するのではない。「ひろま」でスマホを操作したり、椅子に座って迷惑にならない程度に談笑してもよいだろう。気候がよければ二階や三階のテラスでの読書は読書好きにとって最高の体験となるはずだ。昔の私たちのように少し気取って展覧会をデートの場として使ってもよいと思う。私は特に若い人たち、中学生や高校生にこのような多様な使い方ができる場所として美術館に親しんでほしいと願っている。その時、彼ら彼女らは知らず知らずのうちにこの世の中に自由な場所があること、そして自分たちが本来自由であることを発見するはずだ。美術館があるということは煎じ詰めればそういうことなのだ。