館長エッセー 第6回 美術館が息づく時
このコラムの三回目で私は美術館を成立させる三つの要素として建築、コレクション、学芸員を挙げた。その際にコラムの担当者から、それでは来館者はどのように位置づければよいかと問われた。不意を突かれた私は、今挙げた要素は迎え入れる側であり、これに対して来館者は来ていただく側であるなどと言葉を濁したことを覚えている。しかし今になってわかった。美術館を成り立たせるうえで一番大事な要素は、考え方によれば来場者の方々かもしれない。
9月28日に鳥取県立美術館では「からっぽの美術館を遊びつくそう」と題して開館半年前を記念するカウントダウンイベントを実施した。美術館は竣工後、作品を搬入する前に、建築から発生するガス抜きをするための「枯らし」と呼ばれる期間を設定する。したがって建物は完成しているが作品は一点も存在しないという不思議な期間が存在する。この期間、私たちは定員を決めたうえで、希望者に対して毎月15日に美術館建築の内覧会を実施している。この企画は人気があり来年2月の最終回まですでに満員となっているから「からっぽの美術館を遊び尽くそう」はこの内覧会に参加できない方々に美術館の内部を見ていただく機会でもあった。当日はさまざまなワークショップや屋外彫刻の作家による講演会、夜には美術館正面の白い壁をスクリーンに見立てたレーザーショーまで繰り広げられて、なんと延べ6000人の方々が来場された。子ども向けのワークショップが多かったから、当日、美術館のひろまや展示室には子どもたちがあふれ、終日いたる場所で笑い声が響いていた。美術館自体は今年の春に竣工しているから、私自身はこれまで幾度となくその中へ入っている。また今述べたとおり、竣工後も数十人の規模であれば何度も一般の方を迎え入れたことはある。しかし初めて数千人の来場者を招き入れたことによって美術館の印象は劇的に変わった。一言でいえば美術館が息づき始めたのだ。
この日は展示室やフリースペース、県民ギャラリーや美術館の周囲、さまざまな場所を用いてワークショップやトーク、パフォーマンスやイメージの投影などが繰り広げられた。建築の内部と外部、一階から三階まで人の流れは交錯したが、導線はスムーズで特に込み合うこともなかった。これを可能としたのはあらかじめ最大級の来場者数を想定して細部まで設計された美術館の建築、そして入念なリハーサルを重ねてゲストを迎え入れた運営スタッフの手際よさであっただろう。子どもたちから年配の方までそれぞれに美術館を楽しんでいただけたことと思う。そして今回のイベントをとおして私たちも開館後の美術館の施設と運営についてさらにクリアなイメージを得ることが出来たように感じる。
先日の日本経済新聞に大阪中之島美術館の菅谷館長が興味深いコメントを寄せていた。かつて別の施設でコレクションを公開していた際、来場者に好きな作品とその理由を問うアンケートを実施したところ、多くの人が作品を見た際の個人的な体験と関連させた回答を返していたというものだ。作品そのものよりも誰と見たか、どんな時に見たかといった印象が展覧会の体験、美術館の体験の核となっている。もちろん私たちは多くの優れた作品を収集、展示して美術館ならではの体験を来場者に提供したいと考えている。しかしアンケートの結果は、美術館の体験が作品を見ることに終始するのではない点を明らかにしている。そもそも美術館に足を運ぶことは一つの非日常であり、少し贅沢な特別の体験であるはずだ。カウントダウンイベントの当日、作品は一点も展示されていなかった。しかしそこに多くの人々が足を運び、館内に笑い声があふれたという事実は端的に美術館そのものを楽しんでいただくことができたことを示しているだろう。おそらく来場した方々にとってこの日は、鳥取県立美術館の最初の体験として長く記憶に残ることとなるはずだ。
正式な開館の前に美術館と地域の方々が幸せな関係を結べたということは私たちにとっても大きな自信となった。前にも記したとおり、私はこの美術館の最大の魅力はまさにオープンネス、誰に対しても開かれた広いフリーゾーンであり、来場者がそこで自分たちの自由を実感する点にあると思う。カウントダウンイベントは、作品はなくともすでにそのような場所が用意されていることを知らせるよい機会ではなかっただろうか。まもなくからっぽの美術館に向けて県立博物館から作品の移送が始まり、来年春の開館記念展では日本中から集められた名品も展示されるはずだ。
からっぽの美術館に作品が収まり、たくさんの人が訪れた日、作品と来場者の両方を得て、その日こそが、真の意味における美術館の誕生日となるだろう。