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館長エッセー 第5回 「俺が買えば、俺のもの」

マーク・ロスコという作家がいる。ロシアに生まれ、移民としてアメリカに渡り、ジャクソン・ポロックやバーネット・ニューマンらとともに抽象表現主義と呼ばれる絵画運動を代表する画家であり、茫漠とした雲のようなかたちが浮かび上がる独特の画面で知られている。ヒューストンには8組のロスコの壁画で室内が囲われたロスコ・チャペルという施設があり、暗い室内で作品の前に立つ時、巨大な色面の名状しがたい存在感に圧倒される。それはもはや神秘的、宗教的な経験といってよい。私がそこを訪れた際も、作品を見るでもなくずっとベンチに座って瞑想している一群の人々がいたことが強く印象に残っている。この体験は私にとっても抽象絵画が深い精神性をたたえうることをあらためて思い知る得難い機会となった。
ドン・デリーロといえば現代アメリカを代表する小説家の一人である。舞台は2000年のニューヨーク、弱冠28歳の億万長者の投資アナリストを主人公にした彼の小説の中にもロスコの絵画についての言及がある。「あなたはこのロスコの絵をどうしてもほしくなると思うわ。すごく高価だけどね。でもそうなの。絶対に手にせずにいられないのよ」「なぜ?」「自分が生きていることを思い出させてくれるから。あなたには神秘的なものを感じ取る部分があるのよ」これに対して、投資アナリストはロスコの絵どころかロスコ・チャペルをまるごと買い取って自分のマンションに「完全なかたち」で保存することができないかと問う。「でも、みんながそれを見たいのよ」「見たきゃ買えばいいのさ、俺より高い金を払ってな」「でも、ロスコのチャペルは全世界のものなのよ」「俺が買えば俺のものさ」リーマン・ショック前夜の好況に沸くニューヨーク、虚飾と粉飾が溢れかえった都市においては美術品も虚栄の記号と化す。さいわいにも突発した暗殺事件を契機に主人公の関心は急速にロスコから離れ、以後この小説の中で話題とされることすらない。しかし彼の最後の発言については検討する余地がある。「俺が買えば俺のものさ」高級車や高級コンドミニアムであれば、誰も反論しないだろう。しかし美術品についてはどうか。
確かに美術品をどのように扱うについては所蔵者に任されている。かつて王侯や貴族は富裕さの記号である名画を自邸に飾っては、ごく一部の賓客に公開した。この時代、美術品に接することは王たちの特権であったのだ。このような状況を変えたのは市民革命、そして公立の美術館の成立であったと私は考える。ルーブル美術館の前身がフランス革命の直後、1793年に開設されたことは象徴的であり、二つの出来事は密接に関連している。私たちが美術館に通って自由に作品を見ることができるようになったのは比較的最近であり、それは当然ではなく歴史的につかみとられた権利なのである。
美術品には常に二つの力が働いている。一方は作品を公開し、市民が誰でも見ることできるように推し進める力、まさにオープンネスであり、もう一方は特定の人々しか見ることのできない閉じられた場に作品を囲い込む発想だ。王侯や貴族のいなくなった現代においても富裕層の一部は所蔵する作品を自らの邸宅の奥深くにしまい込み、時に所蔵していることさえも秘匿する。二つのうち美術館が拠って立つべき立場は明確だ。作品は公開されてこそ意味がある。美術館は美術品を広く多くの人々に届け、公開していくことを使命としている。作品の公開と保存が本質的に矛盾している点については以前このコラムにも書いたとおりであるが、ここで問われているのは公開する相手を限定するか否かという問題だ。
もちろん美術館は相手を限定しない。(障がい者や子どもたちに対する限定についての議論はありうるが、これは別の問題だ)少なくとも公立の美術館は誰に対しても開かれている。そして美術館はこのような開かれ、アクセシビリティーを未来の世代に対しても負っていると私は考える。難しい話ではない。レオナルドでもよい、フェルメールでもよい、今日私たちが彼らの作品を美術館で見ることができるのはこれまで美術館がそれらを良い状態で保管し、次の世代にも公開することを自分たちの責務と考えていたからだ。2017年に全国美術館会議が定めた美術館の憲法とも呼ぶべき「美術館の原則と美術館関係者の行動指針」には次の一項がある。「美術館は、体系的にコレクションを形成し、良好な状態で保存して次世代に引き継ぐ。」これまで多くの先人たちが美術品を守り、広く公開してきたように、私たち美術館に関わる者はそれを次の世代に引き継ぎ、全ての人に対して開く義務がある。美術品は高級車や高級コンドミニアムとは違う。もちろんそれが私有されることはあってよい。しかしレオナルドやロスコのごとき人類の遺産とも呼ぶべき名品は「俺が買えば俺のもの」ではない。「誰が買っても皆のもの」なのであり、さらにいえば、それは未来の世代に向かって公開するために、私たちが今たまさか預かっているにすぎないのだ。